9. 電子トラップ

― 真空中に浮いた電子 ―

量子物理系の1つとして、真空中に浮いた電子について説明します。電子スピンを量子ビットとして使うことで、環境から切り離された良い孤立量子系が実現します。

電子の捕獲方法

 電子は荷電粒子ですので、電場を使って力を与えることができます。 しかしながら、アーンショーの定理として知られているように、荷電粒子を真空中で静電場だけによって閉じ込めることができません。 そこで、静電場に加えて何を用いて電子を捕獲するかによって、電子の捕獲方法にはいくつかの種類があります。
 最も歴史が長いのは、ペニングトラップと呼ばれる、電場と磁場を用いて電子を捕獲する方法です。 H. Dehmeltらは1959年に初めて電子集団を真空中に捕獲し、1978年には捕獲された単一の電子を用いて電子スピンの磁気モーメントの精密な測定をおこないました。 1999年には、G. Gabrielseらによって電子の量子状態の量子非破壊測定もなされています。
別の捕獲方法としては、液体ヘリウム上で電子を閉じ込める方法がります。1966年、L. Bruschiらによって初めて液体ヘリウム上に電子が捕獲されることが実証され、1999年には、P. M. PlatzmanとM. I. Dykmanによって、ヘリウム上の電子を用いた量子コンピュータが提案されています。 2019年には、D. Schusterらによってヘリウム上の単一電子と超伝導回路との間の強結合が観測されました。
 最も最近実証された捕獲方法として、振動電場を用いるパウルトラップと呼ばれる手法があります。 真空中にマイクロ波の周波数で振動する電場を作りだすことで、電子が振動する電場の節に捕獲されます。 2021年、H. Häffnerらによって初めて単一電子が捕獲されました。

量子ビット

 電子は、スピンと呼ばれる上向きと下向きの2つの状態を持つ内部自由度を持ちます。 標準的には、このスピンを量子ビットとして用います。 ヘリウム上では、電子の振動状態を用いた量子ビットも用いられてきました。 近年では、液体ヘリウムの代わりに固体ネオン上に電子を捕獲することで、電子の振動状態としては比較的長い100マイクロ秒もの寿命を持つ振動量子ビットの開発もなされています。 2025年現在においても、ペニングトラップ以外の技術では、いまだ浮遊電子のスピン状態制御は実現しておらず、研究開発が続いています。 一方で、ペニングトラップの量子技術においては、これまで単一の電子を用いた研究に限られており、量子コンピュータを目指した2個以上の電子からなる研究がなされようとしています。

孤立量子系の読み出し

 孤立量子系は、環境から切り離されており、長いコヒーレンスを期待できる量子系です。 しかしながら、孤立しているということは同時に、その量子状態を読み出すことが難しいことを意味します。 浮遊電子を読み出すには、非接触な方法で遠くからその量子状態を観測しなければなりません。良く用いられる一般的な方法が、鏡像電流を用いた読み出し方法です。浮遊した電子の近くに電極を配置すると、電子の運動に伴い、電極には微小な鏡像電流が流れます。1個の電子が作る電流は非常に小さいため、この鏡像電流を電気回路で作った共振回路によって溜めこむことで、測定できる大きな電流として取り出します。

量子プローブとしての浮遊電子

 孤立量子系である浮遊電子は、非常に精度良く物理量を測定するプラットフォームになります。たとえば、電子スピンの磁気モーメントを表すおおよそ2という値を持つg因子が、ペニングトラップを用いて非常に高精度に測定されています。近年では12桁以上の精度で測定され、量子電磁気学による理論計算との一致が確かめられています。また、電子の反粒子である陽電子の精密な測定によって、粒子と反粒子の違いを確かめるような実験や、トラップされた電子による暗黒物質の検出実験など、さまざまな基礎物理に関する実験提案がなされています。

野口篤史
執筆:野口 篤史(東京大学・理化学研究所)